48歳の独女が、迷走の日々を綴っています。

ひまわりの子供たち~長崎・戦争孤児の記録~を観て

本・テレビ・食 レビュー
Photo by Jordan Cormack on Unsplash
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今日は76年目の終戦記念日ですね。
ハイ子はこの時期、戦争特集をむさぼるようにみています。
70年以上経ったからこそわかる真実があるんですね。
語らない、語ることができなかった話がまだまだたくさんあるようです。


夕べはETV特集~ひまわりの子供たち~長崎・戦争孤児の記録~を観ました。

長崎の原爆による死者は7万人、それによって生まれた戦争孤児は2000人以上。
番組はその戦争孤児とその孤児を収容した施設「向陽寮」を取り上げていました。

とある兄弟は、親を失いバラバラに農家で暮らすことになります。
兄弟を待っていたのは、学校に行けるのは月に2回程度、真冬に自ら草履を作って麦を踏みに行くという過酷な生活でした。

敗戦後、全国で12万人以上の戦災孤児が生まれたともいわれます。

国は海外からの引き揚げ者や失業者の対応に追われ、孤児の救済は後回しとなり、孤児の中には盗み、物乞いをして命をつなぐものもいて、孤児は総じて過酷な生活を強いられていました。

この状況を治安への脅威をとみなし、孤児を収容する施設を設置するようGHQからの指示が出されます。

その中で、アメリア軍が模範的な施設として「向陽寮」を長崎に設置し、その寮長として抜擢されたのが、餅田千代さんでした。
ちなみに「向陽寮」の由来は孤児たちが明るく前向きに育ってほしいという願いから付けられました。

寮での生活は厳しく、食事は一汁一菜。食料は農家を回って寮長である餅田さんが頭を下げえてもらいに行き、子供たちもそれを手伝っていました。
寮では6時起床という規則正しい生活。70~80人もの子供たちが一緒に暮らしていました。

その後昭和22年「教育基本法」が制定、すべて国民は等しくその能力に応ずる教育を受ける機会を与えなければならないということで、「向陽寮」の孤児たちも近くの公立学校に通うことになるのですが、PTAの反対にあいます。

それを説得したのが寮長である餅田さんでした。

説得の後なんとかPTAの理解を得て、子供たちは学校に通うものの、いざ通ってみると「孤児、お前は孤児だ、戦災孤児だ」と差別を受けました。

当時の状況を振り返って、元寮生たちは「みんなが白い靴を履いているのに、自分たちは黒い靴。」と話されていたのが印象的でした。
復興復興といっても、寮の子供たちは取り残されていったとも…。

しかしそんな状況でも負けずに、寮では寮生の自主性を重んじ、自治会を作らせ寮生自身が規律を作って守るなど、模範的な指導・生活がされていました。

野菜を作って、売ったお金をお小遣いにするなど、たくましく前向きに生きるための力を養っていった寮生たち。

その後、15歳で寮生たちは卒寮していきますが、社会にでるとまた様々な困難が待っていました。

それは孤児であることへの社会からの差別です。

ある人はそんな社会に順応するために寮生であったことを隠し、卒寮してから一切寮や寮長である餅田さんとの連絡を絶つ方もいらっしゃいました。

それでも餅田さんは寮生たちの将来が希望に満ちたものであることを願っていました。

最終的に「向陽寮」を卒寮したのは100人以上。
中には社会にでて馴染めず、寮に舞い戻ってくる寮生もいました。

そんな方にも餅田さんは分け隔てなく食事を提供し、それが県庁にばれ、最終的に餅田さんは左遷という形で寮を去ることとなります。

その後も寮生たちは、社会の荒波の中「手癖が悪い、乱暴だ」といういわれなき偏見と戦いながら、なんとか生き抜いていきます。

復興が進む中、だんだんと差別を恐れて寮生たちの多くが息をひそめで暮らすようになり、寮生同士のつながりも途絶えていきました。

そして戦後70年以上経ち、寮生の一人が発起人となり、同窓会を開くこととなります。

実に寮生たちは、60年ぶりの再会を果たします。

番組では当時の寮の生活から餅田さんの寮生への接し方などを丁寧に紹介し、同窓会までを追います。

餅田さんは左遷後、晩年まで児童福祉の普及に尽力し、82歳で亡くなりました。

最後まで寮生からは「お母さん」と慕われ、その2世からはおばあちゃんといわれたそうです。

~~~感想~~~

孤児になってからの生活はもとより、卒寮後の寮生の方の生活は壮絶だっただろうなと考えました。

戦争で親を失うのは不可抗力で、もちろん本人が望んでのことではないのに、手を差し伸べるどころか差別をするなんて…本当に人間は残酷ですね。

それだけ社会が満たされていなかったというか、みな自分のことで精いっぱいだったのかもしれません。

自分も含め、人間は弱いものだと改めて思い知らされました。

おそらくハイ子も同じような立場になったら、差別をしてしまうかもしれません。

とにかく、自分に余裕がなければ、長いものには巻かれろではないですが、当時の世相などに流されて、自分で考える事を辞めてしまうのです。

そういう状況になったら「一億玉砕、本土決戦、最後の1人になるまで戦う」なんて、おかしなスローガンも受け入れてしまうかもしれません。

うっかり人を傷つける立場になっていても気が付かないし、最終的には人の死体を見てもなんとも思わなくなる…。
そこに行きつくまでに意外と時間はかからないんじゃないでしょうか。

だからこそ、とにかく戦争のない社会を維持するということ、今の普通を普通の状況としてとどめおくことはとても大事だし、努力が必要なのです。常にそれを意識しないといけないなと感じます。

食べるものに困るような過酷な状況に置かれたり、肉親を亡くしたり、それでも「戦争だから仕方ない」という…。

そんな異常事態を簡単に「仕方のないこと」に落とし込む「戦争」ってなんだ?とおもいます。

平常時だったら、そんな簡単に片づけられるものでもないし、失われて良い命は無いはずです。

かわいそうとか悲惨とか、とにかく普通じゃないと感じられる今を維持したいものです。

そして、この番組の内容は戦後間もなくではなく、今だからこそ知ることができるテーマだなと感じます。
おそらく寮生の皆さんが現役世代だった当時は差別や偏見を恐れて取材を受けることはなかったのではないでしょうか?

戦後76年、まだ貴重なお話はたくさん眠っている気がします。

ひまわりの子どもたち~長崎・戦災孤児の記憶~」クリックするとNHK ETVサイトに飛びます。

おしまい




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