こんにちは、今日は日曜日「ザ・ノンフィクション」>クリックすると今日の放送回のページに飛びます>の放送日でした。
今週はパチスロライターのマエダさん(パチスロをやったことがないので、存じ上げていなかったのですが)ハイコと同じ45歳、今年の5月に癌で亡くなられたのですが、そのマエダさんが昨年2月にがん告知を受けてから亡くなるまでのおよそ15カ月を追ったドキュメントでした。
ちなみにマエダさんは、バツ2、パチスロライターという天職を得て人気ものになり、これまで歩んできた人生は、凡庸なハイコの暮らしとは被っているところがあまりないのですが、最終的には独身(お子さんは3人いらっしゃいますが、会わない?会えない?ようです)で、奇しくも父親が亡くなっているため、母親と二人暮らし…。
ハイコの場合はこれに兄がプラスされますが…。
まあまあ着地点は似ているようなところもございます。
やりたいことをして生きてきたけれど、45歳というのはやはり若いとおもいますし、どんなにわがままに好き勝手してきたとしても、悔いが残るものなのでしょうか。
それとも、そもそも「死」自体、直面してみるととてつもなく恐ろしいものなのか、その環境に身を置いてみないとちょっとわからないですね。
ハイ子はやり残したことも、これと言ってない気がしますし、ただ長生きしてしまいそうな予感だけはあるので、老後への備えという観点から、あれもこれもしなければ!という気持ちはあるものの、これが「来年、死ぬよ」ってなったらどうなんでしょうか。
あ、もうその準備はしなくて済むのか…ぐらいにしか思わないかもしれないです。
マエダさんの場合は、天職を得て、お仕事も順調で、気の合う仲間に囲まれて、きっと思い残すことだらけだったのかもしれないです。
ハイ子の場合は、特に仕事も天職とはいいがたく、強いて言うなら母親よりは先に死ねないかな…ぐらいでしょうか。
「あのマエダさんが、癌で45歳で死ぬ」ということが特別なお話であるからこそ、成り立つエピソードなので、ハイコがもし明日癌で余命宣告されても、ザ・ノンフィクションのスタッフは取材に来ないだろうし(当然だ)圧倒的大多数の一般人が、そうして静かに最期を迎えているわけです…そりゃそうだ。
ちなみにどちらかというとハイコは、結構頑張って生きてきたとおもうし(基準はひとそれぞれですから)、割ともうやり残したこともないし、明日突然癌の告知を受けても、葬式代や今後かかるであろう家の修繕費などの困らないお金を遺し、自分は最低限の痛み止めとかもらって最低限生きられればいいかなと安易に思ったりしますが、結局そうなってみないとわかりませんね。
いざ一切治療をせずに死の間際になって、やっぱり放射線治療しておけばよかった…と嘆くのかもしれないです。
そうならないためにも、結局は治療してしまうかもですね。
それに残された母が後悔するかもしれないですし。無理にでも治療させるんだった…本当に手を尽くしたといえるのだろうか…とかって。
そうしたら、浮かばれるものも浮かばれないので、やっぱり治療するのかなぁ。
かもかもかもって、かもばっかりになりますが。
自分の事は自分が一番良くわからないし、結局は「残された家族」を考えている時点で、自分目線になれていないですね。
しかし、どうせ死んで自分はいなくなるのなら、残された人のことを考えてしまうのは当然かもしれないです。
あ、また「かも」
今日の東京は秋晴れですが、このテーマのおかげで、なんだかとても重いことをちらほら考えてしまいました。
次に重いことといえば宅建の試験勉強です。唐突ですが。
ちなみに試験は10月17日です。声高らかに100時間で受かるかどうか検証するとかいっていたのですが、全然勉強できていません。
さっきyoutubeで一か月で受かる!という動画を発見し、視聴してみたら9月11日から勉強開始となっていて、一か月じゃないじゃん…と途中で観るのをやめました。
まったくこの人ったらどこまで勉強しないつもりなんでしょうか。
さっきはやっと問題集のページを開こうとして、あれ?似たほうな本が2冊あるぞ…と、問題集のほかに過去問題も買っていたこと(メルカリで)に気が付き、愕然としております…。
ああ、こうして人は日々の小さなことに苛まれながら命を使っていくのですね。
命が尽きるその瞬間まで、そうなのかもしれないです。
そんな小さなことに苛まれること自体余裕があるからできることなのかもしれないです。
マエダさんのご冥福をお祈りいたします。
おしまい
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